ここ1か月ほど、朝起きると視界に黒い点がいます。目を動かすと、点も“ぷいーん”と付いてくる。以前も疲れたときに数日だけ現れては消えたのですが、今回は定住なさっているご様子。
「これは世にいう飛蚊症(ひぶんしょう)かしら?」と思ったわけですが、私は糖尿病があるので、いちばん怖いのは網膜の出血。放っておけば視野欠損や失明につながることもあるので、コレは違うと思いつつまずは診断が大事ですから、今回はサッと眼科受診へ向かいました。
瞳孔を開いての検査、眼底カメラ、視力・眼圧、CTなどフルコースでチェックしていただきました。結果は眼底に出血なし。ひと安心。先生からのレクチャーがとても分かりやすかったので、素人メモとして共有します(用語はざっくり)。
目の中には硝子体(しょうしたい)というゼリー状の物質が詰まっています。
若いときは“ぷるぷる”ですが、加齢でサラサラ化(液状化)してきます。
動くたびにゼリーとゼリーを包む膜がゆらゆらし、微小な濁りや繊維が網膜に影を落とす——これが飛蚊症として「虫や糸が見える」感覚になる。
加齢変化なので、ゼリーを“元のぷるぷる”に戻す治療は基本ありません。
つまり、コレは加齢による変化なわけで、病的な出血ではないと確認できたなら黒い点=いま可視化されている私の一部ということです。病的な出血ではないと確認できたなら、付き合い方を決めるのが次のステップです。
※赤い稲妻のような光が走る(光視症)、黒い幕がかかったような視野の欠け、急に数が増えた——こうした変化があれば至急受診が安心です。
人間の耳や目は情報をぜんぶ集めて、脳が取捨選択しています。雑踏の中でも友人の声が拾えるのは、そのため。黒い点も同じ。注視すれば、ずっと気になる。でも「自分はどこにピントを合わせるか」を決めることはできる。
私はこう決めました。「黒い点も私。あるけれど、世界のほうにピントを合わせて生きる」。点は点として受け入れ、視界全体を見にいく。すると、不思議と心も広がります。
白髪や白内障と同じく、飛蚊症も加齢のサイン。私の体には、めまい、寝姿勢の制約、肩の痛み(たぶん五十肩)など見守り案件がいくつも常駐しています。健康なときには要らなかった配慮や工夫が、今は必須です。
医療の現場では、「完治」よりも寛解という考え方があります。私にとってのキーワードは、“良くする”より“ちょうどよくする”。薬や生活を乱暴にいじらず、いまの安定をキープする——そんな選択が最善の日もあるのです。
本日の話は、最近よく耳にする「小泉進次郎さん、覚醒した?」という噂について。これは私が日々の観察とセッション経験から感じた個人的な考察=ほぼ独り言です。事実の断定ではなく、「この人、こうなんじゃない?」という読み物としてお楽しみください。
“軽い”“中身が見えない”“軽い神輿は担ぎやすい”など今まで小泉さんには、そんなあまり良いとは言えない評価があったように思います。私もあまり良い印象はありませんでした。見た目の華やかさや立ち振る舞いの良さはある。でも、「政治家として何を成し遂げたいのか」「どの場面でどこまで腹を括るのか」が見えにくかった。日本人はイメージに振り回されやすい国民性もあるからこそ、私はずっと不安だったのです。
ところが最近の記者会見や、予算委員会の質疑でカメラが抜かれるたびに思うのは、表情が変わったということ。ドヤ顔ではない。けれど、目が座っている。短い言葉の端々に、曖昧さではなく「責任の重さに触れている人の体温」を感じるようになったのです。
防衛大臣は、日々のブリーフィングで“言えない情報”に触れ続けます。
日本周辺の海や空で何が起きているか
それにどう対処しているか
どこまでが公表でき、どこからが機密か
日本の防衛の観点から、他国からさまざまな侵犯があるのにそれらの情報は機密だから国民に言うわけにはいかない。だが、もしものことがあれば決めねばならないし責任も取らなければならない。この矛盾を抱えながら、淡々と判断を積み重ねる日々は、人の内側に忍耐と芯を育てるのだと思います。「守る」と決めて、黙って耐える。ここに“軽さ”が入り込む余地はありません。
小泉さんは横須賀の地で育ち、国防が暮らしの近くにある環境にいた人。それでも、実務の最前線の温度に触れるのは大臣になってからです。生活の延長線上に“現場の重さ”が直に乗ってくるとき、人は初めて自分の言葉を持ち始める。私はその瞬間を見ている気がしています。
「覚醒」とは突如の変身ではなく、内在していた資質が“場”によって育つことなのではないでしょうか。言えないことを抱え、耐え、なお決める。その繰り返しが、子どもっぽさを削り、大人の輪郭をつくる。私はそこに、人が変わるプロセスがあると思います。
結局、私たちの生活も同じなのではないでしょうか。
・どう生きたいかを意思にする
・そのために何を決めるか明確にする
・決めたらやる(言い訳を減らし、行動で積む)
この三点セットを回し続ける人は、静かに強くなる。
人間性が整っていくと申しましょうか、これさえやっとけばなんとかなるような気さえします。
「覚醒したの?」と聞かれれば、私はこう答えます。はい。“内在していたものが、仕事によって成熟に向かっている”のだと。そして、その成熟は特別な人だけのものではなく、私たちの日々の選択の中にも、確かに芽生えうるのではないかとも思えます。誰にだって怒ることです。役割が人を育てると言う人もいますが、彼の場合はまさにそうなのでしょう。そしてその役割を与えた高市首相はマネジメントとして、腕利なのかもしれないと思わざるを得ません。
これからの小泉進次郎さんの変化から目が離せません。楽しみが増えましたね。
ここ最近の私は、毎日せっせと国会中継を見ています。思想や感情は人それぞれ。しかし、丁寧に観察していると「政治って生活のすぐとなりにある」そんな肌感があります。
とりわけおすすめは、今行われている予算委員会。総理への代表質問よりも各大臣への具体的な質疑なので、各議員の切り口や準備力、そして大臣の現場感が見える。いわば“素の実務”が顔を出す場面が多いから、見ていておもしろいんです。キャラクターも見えてくるし、見応えがありますよ。
良いところも悪いところもある。それでも長く政権を担ってきた与党には、保守からリベラルまで幅の広さと、人材の厚みがあるのも事実。(いっとくと、自民党は基本保守政党ですからね)実務は官僚が回すけれど、決めるのは政治。大臣だけでなく、副大臣や政務官、委員会のポスト、そして山ほど必要な“現場の手”があって初めて動く。だからこそ、与党側に“主導できる優秀な人”がどれだけいるかは、やっぱり大きい。もちろん間違いもあるし、ダメダメな人もいるので、だからこそ野党の追及が必要だし、選挙で誰を選ぶかっていうのが大切なんですよ。
ここからは私の“推し語り”。私はずっと高市さんを応援してきました。今回の総裁選、ふと気づいたんです。——高市さんメイクが変わった。眉、リップ、前髪。強さを前面に出す“昭和的きりっとメイク”から、少しエッジを落としてしなやかな強さへ変化しましたよね。「信頼感」が増したように感じました。女性なら「あ、変えたな」って、説明できなくても感覚で分かる変化でしたよね。
男性陣が「変わったの?どこが?」と言っているのも見かけました。いや、そこなんです。女性の観察眼は、生活の中のコミュニケーションと直結している。相手の小さな変化をキャッチして言葉にすることで、距離を縮め、心を汲む。だから、メイクや所作の変化は“決意の言語化”にもなる。そう、ルックは意志なんですよ。
歴代の総理の誰かが言っていました。「総理は明るい方がいい」。なぜか? 希望が連鎖するから。変化の初速はいつも期待で生まれる。期待が現実に落ちていくには時間がかかるけれど、その間を支えるのがリーダーの“明るさ”なのではないでしょうか。明るさは決して軽さではありません。信頼に裏打ちされた前向きさのこと。高市さんのルックの変化から、私はその「明るさを伴う覚悟」を確かに受け取った気がしました。
それに加えてこれは私の原体験なのですが、子どもの頃日本舞踊を習っていて、先生に何度も言われたのが「腰を入れなさい」ということ。腰が座らないと、所作はすべてぶれる。立つ・座る・振り向く。どの一挙手一投足にも芯が通らない。芯が定まれば、動きはなぜか上品に、美しく見える。政治家の“目の力”や“立ち姿”を見ていると、この「腰=芯」を思い出すんです。人は何かをつかんだ瞬間、目にぐっと力が宿る。あれは誤魔化すことができないものです。そんなものも感じました。
人は変われる。諦めないこと、手放すこと
私の特技は「諦めない」ことだと自分で思っています。握りしめすぎて見えなくなりそうなときは、そっと脇に置く。でも、手の届くところに置いておく。ある日ふっと点が線になって、「あ、これかもしれない」と腑に落ちる。そのとき必要なのは、自分を変化させる勇気。手放す・受け入れる・やり尽くす。高市さんのメイクチェンジに、私はその覚悟を見ました。外見の調整は、内側の決意の反映なんですよ。
メイクひとつ、姿勢ひとつ。そこに芯が通ると、見る景色が変わる。政治も、仕事も、家庭も同じ。私たちは日々、小さな選択で自分をつくっています。変化を恐れない。変わるなら何はなくとも勇気が必要です。諦めないで、まずは自分の見た目の変化から取り掛かるのもありかもしれませんよ。