「自利と利他」
これは仏法用語なのですが、
自利とは自分の成果の事。
利他とは自分を犠牲にしても他者の成果を得る事。
自分自身が悩んで苦しくて、自分を変えようと考える時、それは自利に基づいた行動といえますが、これが自分が原因で人に迷惑をかけているようなことを経験すると、そんな自分を周りに迷惑がかからないように変わりたいとなると利他的行動になります。
先日セッションに来てくださった方は、お子さんが大人の顔色を見ていることに気がついて、そんな様子がとても自分に似ていると思ったそう。
今の自分もとても他人軸で、生きにくいと感じていて、このままだと子供が自分と同じように人間関係で苦しむのではないか?と思ったと言います。
それで子供との関わりを変化させたいと考えて、まずは自分の問題を知りたいと、私のところにお話をしに来てくださいました。
自分の苦しみを引き継いで欲しくない。
お母さんとしたらその気持ちはよくわかります。
どこかで無意識に伝えている、思考の癖や認知の歪みを断ち切らなければ、次の世代へ確実のその悪いものは引き継がれてしまいます。気付いたなら、それが断ち切るタイミングなのです。
モチベーションとして、自分がなんとかすることですから自分のためにという自利の精神はとても大切です。自分軸にもつながると思うからです。
しかし、誰かのために、何かのためにというのも自分軸から出た思いやりの産物であれば間違いなく力になるものだと私は思います。
自利であれ、利他であれ、自分軸で決めたことは間違いないでしょう。
ただ人生人間関係が複雑になればなるほど、誰かの幸せが自分の幸せを凌駕する事もあります。そうなることは決して悪いことではありませんし、人の幸せが自分の幸せになることでより大きなものになることでしょう。利他的精神も、自分を変える大きな動機としてはアリだと思います。その方が力になる事もあるかも知れませんね。お仕事の悩みってつきませんよね。
環境に適応できるかは、そこでの人とのコミュニケーションがうまくいくかが重要だったりしますが、それ以前の問題もあります。
それは「自分がその仕事に向いているか否か」です。
個性がいろいろあるからこそ、その点を無視することはとても危険です。
「向いているか向いていないか」というのは、「得意か得意でないか」、要は「できるかできないか」ということ。
それらと混同しやすいのが、「やりたいかやりたくないか」であり「好きか嫌いか」だったりします。
仕事を選ぶ時、やってみなければわからないこともありますから、実際にトライしてみることは必要でしょう。やってみて努力をしてもどうにもならなかった時、自分には合っていない(うまくいかない)のかもしれません。それなら違う選択をする必要があります。
自分が好きで、やってみたいことはわかりますが、それが自分に得意でできて向いているとは限りません。
そこを勘違いしないで欲しいのです。
人と話すことが得意か否か
企画立案ができるか否か
マルチタスクができるか
単純作業を集中してやることができるか
いろいろありますけど、できることをした方が成功体験も達成感も得ることができて悩むことはすくないかも知れません。
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毎朝聴くラジオで流れる「ため息つくと幸せ逃げちゃうよ」というCM、気になって仕方がないんです。
ため息って心と身体にとって、ある意味リセットするために起こることで、誰なんでしょうね幸せが逃げるなんて呪いをかけたのは。
私たちの感情には怒りや悲しみなどネガティブなものもあるわけで、それは湧いてくるものですから消えようがないですし、消し去ることもしてはならないと思うのです。
以前から「ポジティブシンキング」をしましょうと、いい言葉を使ったり前向きなことを考える方がいいなんていう考え方が、そもそも単純すぎて私は好きではありません。
陰と陽、どちらの感情も私たちはみんな持ち合わせているのですから、どちらかが悪くてどちらかがいいなんていうのは「ありのまま」ではありませんよね。正直な自分であることが、自分軸でブレずに生きていくことになるので、ポジもネガも両方感じて感じてその後どうするかを考えればいいのです。だってこの世界に影響を及ぼすのは、基本考えてのちの行動だけが反映されるのですから。
いっぱいため息ついたらいいんです。幸せが逃げたりなんかしませんよ。逆にそんな呪いにかかっていると正直な自分の感情に蓋をしたり、思ってもいないことをしてしまうことになりかねません。この世界は何も増えもしないし減りもしません。ただ循環しているだけです。全てが最終的にはプラマイゼロの状態になるだけです。
ポジティブ信仰に騙されちゃいけませんよ。
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ただいま某タレント事務所が新しい会社の社名を「公募する」と発表したのを聞いて、思い出したことがあります。
それは、以前お世話になった講師の先生に言われた事。
その先生はある講義について、私たち受講生にいくらで受けるか自分たちで決めなさいと言ったんです。
それを聞いてなんだかモヤァ〜っとしたんですよね。その違和感の原因を考えた結果私が行き着いたのは、「自分のサービス(講義)の値段(価値)を人にきけさせようとした傲慢さ」でした。
なにかしら商品もしくはサービスを提供するとき、どんなものにも自分の中での価値観があって、そのものに対して責任感があるのであればちゃんと自分なりの値段をつけて人に差し出すべきではないかと思うのです。
自分の価値を評価してもらうことは必要であることもわかりますが、中途半端にお客様に丸投げはいかがなものかと思ったんですよね。
結局その講義は無くなってしまったので、値段をつけることも支払うこともなかったのですが、そもそも始まりの無責任さがその講義を現実にできなかったのではないかと考えてしまいます。
自分の価値、自分が生み出すものの価値に対して、私たち自身が無自覚でいることはとても危険なことのように思えます。自分とは何か?まるでそこにあることに自覚がないことで正体をなくしているようです。私が私であることは、どんな小さな意思にも宿るように思います。
自分の価値に自覚を持つことにも責任感を持ちたいものです。音声配信ブログ 更新しています
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みなさんごきげんいかがですか。
ゆるく時間を過ごす時、私は流し見できるドラマを見ることが多いのですが、最近見つけたドラマがこちら
「名建築で昼食を」
カフェ開業を夢見る主人公のOL春野藤が、「乙女建築」巡りを趣味とする中年の建築模型士、植草千明とSNSで出会うことから始まります。
名建築巡りをしていく中で、藤は千明の独特の価値観に興味がわきはじめます。仕事に恋に悩み多き藤は、人生経験豊かな千明から発せられる一風変わった視点の何気ない言葉に心動かされ、勇気づけられ、前に進んで行きます。このドラマは一人の女性が挫折と葛藤を繰り返しながら成長していく物語です。
アマゾンプライムで見られますよ
この建築模型士のおじさんが言った言葉が「不幸には気付きやすいが、幸せには気付きにくい」でした。
そうそうって頷いちゃいましたよね。
私たちは傷つきたくないし不安になりたくないからついつい不幸なことを見つけてしまいがちです。自分を守るためdすから、しょうがないことなんだとは思うのですが、そればかり優先していると不幸を見つけるのだけがどんどん得意になっていって、ちゃんと不幸な自分ができあがっていってはいませんか?
それってもったいないですよね。
実際良いことも悪いことも、ほぼ同量な気がしています。
そうだとしたら、良いこと、幸せなことに視点を移せば幸せな日々が送れるということではないでしょうか。
幸せを見つけることが得意になれば良いのです。
だって私たちは全てを持たされているのです。ただそれに気づけていないだけなのかも知れません。
「幸せの青い鳥」は、すでにカゴに入っていたし
花の子ルンルンが探していた「幸せの虹の花」は、彼女に家の裏庭に咲いていました。
私たちだって、ただ気づいていないだけだし、見えていないだけなんですよ。
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小ネタの宝庫、主人がまたまたやってくれました。
一年ほど前からあるビールを注ぐホームサーバー。
主人は毎日夕食にいっぱいビールをそれで飲んでいるのです。ビールを入れ替えるたびにチューブを取り替えたりメンテナンスが必要で、面倒ながらも彼がそれを含めて管理をしているのですが、ついぞ先日そのメンテナンスの道具が入っている引き出しが開けづらくなったようで、力ずくで引っ張ったものだから壊れてしまいました。誰が悪いって力ずくでやったのは夫本人な訳ですが、なぜかわたしに八つ当たり。
いつものことですが(子どもか!)むかつきつつも、「引き出し壊れちゃったから、この上の引き出しにメンテの道具をしまったら?」と場所を入れ替えたのです。
それが前の日。
そして今日、またいつもの引き出しをガタガタやって道具が見つからないと文句を言うのです。
いや、それ昨日違うところに変えたよね、というと急におとなしくなって思い出したよう。いつものようにビールを注いで飲んでいる。
人に八つ当たりしといてあやまんないのかよ!ってそれも問題だけれども、いつもの習慣になぞらえていつもの行動して、そこに疑問持たないの??
ヒトの脳はいつでも何かを選択しているので、ずっとストレスを受けています、これ祖認知負荷というのですが、これを回避するため「習慣」という日々のルーチンワークを無意識に行動する機能があります。変化がなければ問題はないのですが、いつもの場所を入れ替えたりすると習慣に流されるままいつもの行動をしてしまって間違えてしまうことが起きます。
習慣はストレスを軽減するのに大切な機能ですが、それは私たちの意識の停滞や飽きにつながります。ヒトのやる気は新しいことへの変化や、期待があってこそ活気付くものです。
どうですか?
習慣の奴隷になっていませんか?
余裕のあるときに少し変化を求めて、生活のルーチンを変えてみてはどうでしょう。
奴隷は楽ですが、主体性のある選択をすると新しいことに気づくかもしれません。
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愚痴や雑談は聞き流すものです。
雑談はコミュニケーションの潤滑油であることがほとんどですし、愚痴に関しては吐き出すことが目的なことが多いものです。
それを「人が話すのは問題を解決したいから話しているのだ」と思っている人がいます。
これは聞いて私も驚いたのですが、もしかしたらそう思っている人結構いるのではないでしょうか。
雑談や愚痴を「相談」だと思って聞いてしまうと、聞き流すことはできませんし、つい相手にアドバイスやいらぬ一言を言ってしまいます。話を相談だと思いやすい人は、「自分がなんとかしなくては」「相談してくれたんだから解決したいんだろう」と思い込んでしまっていませんか?
話をすると言うことは誰もが何かを解決したくて話をしているのではありません。
もし相談だと感じたら、相手に「これは相談?それとも聞いてほしいだけ?」と聞いて確認してもいいと思います。
思い込みや、空気を読むだけでは勘違いすることも多いものです。聞いてしまうのが一番確実で、問題も起きないでしょう。
話を相談だと思ってしまうのは、自分も苦しくなることがありますし相手の課題を奪う行為になることもあるでしょう。誰もが起きたことを解決したいわけでもないでしょうし、中にはすでにもう自分の中で答えは出ていて聞いてほしいだけなのかもしれません。
思い込みは思考の癖です。
気づいたらそれをまずは止める。
人の課題を奪うのは一番やってはいけないことですから、勝手にアドバイスはしないようにしましょう。
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8月31日で在処が7年目に突入しました。
「自分を知りたい」
「自分軸を持ちたい」
というマニアックでコアなみなさんのおかげで、かなり長くやってこれました。
ありがとうございます。
自分を知りたいと願う人の中には、「特別な自分」であることを肯定したくて自分探しをしている人もいるのですが、私は
みんな唯一無二の存在ですから
「みんな特別」
みんな特別ということは「特別」な存在自体が当たり前で「平凡」であることと同義である
とお話ししています。
特別だと思いたいのは思い上がりだよ、ということですね。
自分らしく当たり前のことを当たり前にできるようになることが、私たちのやるべきことで、そこにその人の得意なことが反映されれば「あなたらしさ」が生まれるのです。
特別なことができることではありません。
平凡こそ特別なことなんです。
当たり前だと思っていることを当たり前に続けることは、もっとも難しいこと。
それこそが特別なことなのかもしれませんね。
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自分のことを整えていく過程で、自分軸(自分は何者か?自分は何をする人か?)を少しずつわかってくると、気になってくるのが
これは自分軸か?それとも我欲か?というところ。
これはとても似ていて、迷いがちなところです。
私がみなさんにお伝えしているのは、自分軸には正直な自分の意思がありつつ、まわりの人に対してちゃんと思いやりを持った言動ができるということなのですが、それが自分の欲やコントロールなんじゃないかと思うこともありますよね。
そんな時、今までは私自身の中では判断できるのですが、お伝えするときにこの判断はどういうことなのかを言葉にできていませんでした。
今回コロナで隔離されたことで改めて読んだ本の中から、その言葉にできなかった判断の基準に気付かされました。
それは「貢献」です。
自分に正直な意思で判断したことであることはもちろんですが、その言動が誰かのために、何かのためになっているかどうか?という視点が必要であるということ。
それはすぐ結果の出ることではないかもしれません。
長期的視点で見ることも大切です。
自分軸を実践するとき、貢献力があるかどうかも考えてみてください。
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